漢方・歴史のひとこま~ 漢方あれこれ ~
長い歴史のあいだには、漢方に関連のある逸話も多く残っています。
時代や国などの背景は整理していませんが、思いつくままに掲載してみます。
漢方がなかったら大正時代はなかった?
明治12年、明宮嘉仁親王(はるのみやよしひとしんのう=後の大正天皇)ご降誕の時、後に「明治漢方最後の名医」といわれた浅田宗伯先生が尚薬侍医の大任を拝命しました。
生後間もない親王は全身痙攣を繰り返し、ひきつけを起こし、まさに危急の状態に陥ったのです。
国を挙げて憂いに沈み、そのご快復を祈っているときに、宗伯先生の臨機応変にして大胆な治療によって見事に危篤状態を脱したのです。
宗伯先生の漢方治療がなかったら大正時代はなかったかもしれません。
浅田宗伯先生は日本漢方の集大成ともいうべき考証派という流派の医師で、「勿誤薬室方函口訣」「橘窓書影」など多くの著作を残しました。
先生の医方を継承したいわゆる浅田流漢方は現在も漢方の専門家に受け継がれています。
一族の多くを亡くした張仲景
抗生物質のない昔は、伝染病はずいぶんと恐ろしい病気でした。
中国の後漢の時代、今から約2千年近く前のことです。
長沙という郡の長官の張仲景(ちょうちゅうけい)は、2百人あまりいた親族の3分の2を10年ほどの間に亡くし、その内の7割が傷寒(しょうかん=伝染病など急性の熱性疾患)が原因でした。
そこで発憤して、当時の医方、薬方を集成して「傷寒論(しょうかんろん)」をつくったのです。
これは最古の漢方薬物療法書であり、後世に大きな影響を与えました。
特に日本の漢方では歴史を通じて重要視されてきました。
現代においても葛根湯(かっこんとう)、小柴胡湯(しょうさいことう)など収載処方の多くが実際によく使われています。
漢洋脚気相撲
明治時代には、脚気は難病の一つでした。
明治11年(1878)、東京府は神田一ツ橋に脚気病院を開設して、漢方医学と西洋医学に治療成績を競わせたのです。
これを世人は「漢洋脚気相撲」と称してはやしたて、漢方医と西洋医を対照した番付表も出ていたほどですが、この病院は明治天皇の脚気治療に困った政府と西洋医側が、脚気の秘方を誇っていた遠田澄庵から、その秘方を公表させようとする意図が含まれていたと伝えられます。
西洋医と違って、病気の原因がわからなくても治療のできる漢方医は、適切な食事指導をとりいれて、巧みに脚気を治していました。
明治天皇も西洋医の処方を振り切って麦飯で脚気を克服したのです。
脚気の治療では、もちろん当時は漢方医の方が優れていました。
「皇漢医学」について
「自分は金沢医学専門学校に学んで明治34年に卒業して以来、診療を続けてきた。
しかし明治43年に長女を疫痢で亡くし、自分が習った西洋医学の力不足を恨んで悲嘆にくれていたところ、たまたま故恩師の和田啓十郎先生著「医界の鉄椎」を読んで漢方を学び始めた。
以来18年間の努力研究の結果、ようやく漢方を理解し、古い医学と雖も上手に活用すれば、最新の医学よりも効果的なことが多いことを知ったが、世間は西洋医学一辺倒で、漢方が滅亡の危機に瀕していることは非常に嘆かわしく、座視するに忍びないので本書を世に問う。」
これは昭和2年に出版された、日本漢方医学の代表的著作「皇漢医学」(湯本求真著)の自序の概略を読みやすくしたものですが、少し読み方を変えれば現代にも通じるような気がします。
このような先生方の地道な努力によって、漢方の本当の良さが伝わっていくのです。
鑑真和尚と漢方
唐僧、鑑真(がんじん)は学徳共に高き高僧でした。
天平5年(733)遣唐使に供して入唐した僧、栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)の来朝招請に応じたのです。その後5回の渡航を試みて失敗し、失明しながらも、天平勝宝5年10月(753)遣唐使の帰朝の船で来朝し、仏教の正式な戒律と最新の医学とともに多くの薬物を日本に伝えました。
鑑真和尚は医術、薬物の鑑識に通じ、当時のわが国の諸薬物を弁識し、盲目ながらも鼻をもって分別して錯誤することがなかったといいます。
和尚による処方は鑑上人秘方の名が伝えられているだけで、残念ながら内容は明らかではありません。しかし、和尚が開いた唐招提寺に奇効丸という薬が今日まで伝わっています。
東大寺の正倉院には、当時に使用された薬物の内数十種がその記録(東大寺献物帳)と共に現存していますが、鑑真和尚が献納した薬物も多数含まれています。